2011年5月27日金曜日

やさしさ上手

健康で大人として機能している人は、他人を盲目的に信じることも、反対に頭から疑うこともしません。中間に立つグレーな感じです。こういう人は、まず自分と自分の感覚を信じます。
その内的な感覚を大切にして、そこから相手が信用できるかどうかを判断をスタートさせ、判断する材料を求める一方で、自分の判断も強めていきます。

 時には判断を間違うこともありますが、間違ったにしても、それが原因「人は信用できない」と極端に傾くこともありません。

これが健全な人の状態です。



 ところがある種の人は、思うように人を信用することができません。思うようにとは、思いたいけれど、いざとなると出来ないのです。つまり愛した人に対しても同じだということです。
このため、疑いの気持ちが消えず執拗に確かめようとします。
それは自分を守る上で欠かせないスキルだったのです。だから今日まで無事に生き抜けたと信念化した無意識があります。

否認だらけの機能していない家族で育ったために、自分の感覚や感情、考えを容易に頼りにできないのです。親の反応が予測不能で一貫性を欠いていて、気まぐれにかわいがられたり叱られたりしたため、

他人を信じられなくなってじまったのです。アルコール依存症の親はその典型で、アルコール依存症の親を持った人は、その気まぐれに「不信」という深い傷を負っていることが少なくありません。

可愛がるかと思うと、数分後には別人になるという体験を繰り返し、繰り返ししてきたら、目の前で起こっていることが信じられなくなっても当然なのです。

 そのせいで、成人して親しい間柄になっても、自分の気持や考えを信じられず、伝えることに過度に不安になっているのです。心のなかをさらけ出したら傷つけられるか見捨てられるかのどちらかだと思ってしまうからです。

 落語に正式なタイトルは忘れましたが「饅頭怖い」というのがあります。

 男が集まって饅頭の話をしていると、ひとりの男が「饅頭の話をしているだけで気分が悪くなった」と言い出し、隣の部屋で寝てしまいます。
そこで皆は「あいつを饅頭攻めにしていじめてやろう」と金を出し合い、饅頭をたくさん買いこん男が寝ている部屋に投げ込みます。すると目覚めた男は怖がりながらも「ああ怖い、怖い。こんな怖いものは食べちまって無くしてしまえ」と言って饅頭を全部食べてしまいます。

いたずらした側の連中は、覗き見で様子を伺っていましたが、どうも様子がヘンだと考え、一杯食わされたことに気付きます。怒った連中は「本当のお前の怖いものは何だ!」と聞くと・・・・今度は「このへんで濃いお茶が一番怖い」とオチがつきます。

 コミュニケーションに悩む人の場合では、オチの部分がなく、このように自分が好きなものを伝えると奪われて、自由を失うと考えてしまうのです。それは親との関係で学んだ結果で、理屈ではなく身にしみこんでいるのです。体罰として食事を与えてもらえなかった子供のことを思い浮かべてください。

目の前で親は自分の好物の料理を食べ、自分には与えられず空腹を我慢する。こういう体験をしてきた人が、まるで感情がないかのようにふるまうことがあっても決して不思議ではないのです。

身体の障害は目につき判断もできます。心の障害はなかなか分りません。あの人変わってるというのは、簡単ですがその言葉や態度が無神経に傷つけていることも少なくありません。

 やさしさ上手になりたいものです。