2011年11月16日水曜日

コントロールから自分を守る










 愛し合う二人に訪れる危機はいろいろありますが、よく分からない間に進行している危機がコントロールです。ゲンキポリタンのライフスキル講座を受講している方ならよくご存知ですが、そうでない方にはコントロールって何と思う人もいるでしょう。広辞苑をには、「制御すること、統制、管理、調節」とありますが、ここで問題にするコントロールとは、「相手を自分のの思い通りに操る」コントロールです。

コントロールの元は「弱さ」にあり、その始まりは幼児期にあります。幼児は自分ひとりでは生きて行けない無力な存在です。しかし幼児なるに願望もあります。ところが大の大人と対等にわたりあって自分の願望を満たすスキルがありません。ほとんど親のいいなりですが、それでは自分の願望を満たすことができません。そこで泣き喚き親を屈服させようとします。その作戦がうまく行かないと知ると、手を変え悲しそうな態度で注意を引きます。やがて気がつくと親はいたたまれなくなり、こどもの願望を叶えようとします。

これを「ラケット」と言いますが、その作戦がうまくいくと、「このやり方は使えるぞ」と、繰り返し使うようになりますが、これが性格の一部として浸透すると、ネガティブな方法で相手を操作する習慣が身についたまま成長します。

さて、私たちは、ほとんどが不完全な存在で、それゆえ心に不安を抱えています。
自分の短所や欠点と向き合って生きているものです。短所や欠点を素直に受け止める人もいるし、否認するする人、克服する人もいます。

問題は否認する人の間で起こりやすくなります。

弱点を隠そうとして防御を強くすると、不健全な人間関係を育ててしまうことになりやすいものです。あるがままを認め合い、互いの欠点を受け入れ合って、自己責任を引き受けて、率直、誠実、対等な関係を育てることもできます。それは自分の判断と選択で決められることなのです。

結局は欠点を受け入れられるかそうでないかで>人間関係は決まるのです。コミュニケーションに苦手意識がある人は技術以前に、最初は勇気が必要だとしても、自分を飾らず、否定しないことが解決策なのです。自己否定感が強いとしても、それを自分に許しているのは他ならぬ自分なのです。

そうしない限り、欠点も含めたありのままの自分を大切にすることができるようになります。自分の短所が受け入れると世界は変わって見えるようになるのです。それができない場合には、より自分を隠すようになり、コントロールの土壌をより強く育んでしまうのです。

自分に否定感情を持つ自信のない人が、必ずコントロールの関係になるというわけではありませんが、危険度が高いという点で注意が必要なのです。先に説明した「ラケット」で分るように、コントロールは弱者の消極的な攻撃方法なのです。主にふくれる、すねる、プンプンするなど態度でコントロールしようとします。その動機がなんであれそこにある温かい関係も冷えさせてしまうのです。

2011年10月31日月曜日

「声に出せない」という問題

「できませんJ「助けてください」「私はこうしたい」と声に出すのはワガママなのでしょうか?そのときどきの心の動きや感情を言葉で表現し、周りの人に伝え、わかってもらうことができれば、楽になれます。
しかし、そうしない人がたくさんいます。
そうしないでいると欲求は消えてしまうのでしょうか?

確かに感情のように消えていくものもあります。しかし本当に必要なことは消えません。では抑えこんだ欲求はどうなるのでしょうか?

感情的な行動となって表現されることが少なくありません。
感情的な行動とは、感情を行動で表現するのです。つまり腹が立っていることが分るような行動をするのです。してほしいことがあれば、プンプン、ツンツンするとかして、相手の責任にすり替えて相手に考えさせるのです。

これが問題をさらに深めます。これにひっかかるのは自己否定感の強い人です。大局的に見れば精神的な虐待が起こっているのですが、強迫的な行動が多い自己否定感の持ち主は気がつきません。感情的な行動の受け皿として都合の良い相手が自分の周囲に残ります。必要としながら相手をさげすむアンビバレンツな状態が日常化します。

感情的な行動にも、言葉で表現する場合がありますが、言葉で理解してもらうことをしないで、どちらかというと態度が主で、そのどさくさで言葉を使うだけのもの。つまり感情の勢いに言葉を載せるのです。

感情の勢いに任せるには、感情の高まりを待つ必要があります。つまり我慢を続けてヒートアップさせますが、それまでの時間、その片付いていない問題が続いているとは限りません。つまり沸点に達するまで、ずっと同じことを繰り返し考えてヒートアップさせているのです。

この状態を他者が気づいたら、「まだ、あのことを考えているの?」と呆れることも少なくないのはそのためです。
この間、本来できることには手をつけられません。あるいはうわの空で取り組むので効率が悪く成果もパッとしません。その手直しに余計な時間が費やされます。他者が眠っている間も働いているというようなことが起こってきます。心身に疲労は高まりますが、報われることはなにもないのです。不満と怒りが蓄積されていきます。

こんな手のかかることをするのは、言葉で表現できないからです。恥ずかしい、悪い、自分にそんな要求する資格がないなど、負のイメージが強いからです。負のイメージを強めているのは不満と怒りです。自己否定感が強いのに、他者に対する否定感も強い。その一方で他者には叶わないという気持ちがあります。他者に対して肯定感情と否定感情があり、相手によって使い分けることでバランスをとります。
自分が考えた強者にはへつらい、弱者には高飛車になります。アサーティブでいう対等、自己責任を自らの誤った判断で破壊し、率直、誠実は誤った責任感によって葬り去られます。

「できませんJ「助けてください」「私はこうしたい」と声に出すことは、誰にも許されている人権なのです。
問題はこの判断を間違ったことから始まっていて、そのサインがそのときどきの心の動きや感情を言葉で表現しないことなのです。

言葉に出すのです。
出せるヒントをお伝えしましょう。

もし、あなたが誰かを好きになって、その人を幸福にしたいと思って、自分の気持ちを告白するのと、恥ずかしさや不安から自分の気持ちを告白しないとしたら、どちらを選びますか?

その選択を分けるのは、プライドだと思うのです。
プライドの中味は、主体性つまり責任を引き受ける勇気です。
幸福にしたいのかされたいのか、選択と判断のポイントはそこです。
責任を引き受ける勇気がないときには、黙って黙々と自信がつくように力を育みましょう。幸福にしたいと思うなら声に出しましょう。

これはすべてに通じることです。家族、友人、顧客、上司・部下とのコミュニケーションでも同じです。だかた人のことを人間という。会話のコツは「傾聴」と言われるのも、そこに理由があります。

ライフスキル講座

2011年10月30日日曜日

どうしてうまく会話できないのか

誰かとと話をしているとき、沈黙が続いて居心地が悪くなり、緊張が高まったり、会話がちぐはぐだなと感じなんとなくバツが悪くなったり、好きな人と話ができるチャンスなのに、なぜかうまく話ができなかったという経験をしたことはありませんか?その上、好きになった経験はあっても、なぜだか特別に話せない相手がいたり。。。会話は日常のことなのに、日常でない出来事が起こるところに人の不思議があります。

会話上手でなくても、いつも自然体で話せるようになるには、どうすればいいのでしょうか。 そのヒントになるのが普段から親しい人と話をしているときのことです。何か違うところはないか、思い出してみてください。

まず親しい人との間では、心が通っています。 つまり、どのようにコミュニケーションしていいのか、わからないとは、心を通じ合わせる方法が分からないというように置き換えることもできます。
では、心を通じ合わせるせには、どうすればいいのでしょうか?

相手の訴をよく聞いて、さらに相手の話を引き出す山すような反応をする、そんなやりとりの結果、いい空気が流れて、自然と自分も乗っていけるようになるものです。 その瞬間に心が開いて、初めて心が通じるのです。

要するに会話上手とは、自分もリラyクスして話ができるだけでなく、相手にも気持ちよく話をしてもらえる状況を作れる人なのです。つまり、あなたが望んでいることを相手も望んでいるのです。
言い変えると話し上手と思える人は、あなたがしていない努力をしている人だとも言えるわけです。違いはなにかと言うと、橋を渡る人と橋の手前で躊躇する人の差、落ちたときのリスクを引き受けて進む人と、リスクを引き受けない人の違いなのです。

ボキャブラリーに富んだ話し方で、どんどん相手を引き込んでいくことも大事でしょう。それはそれでコミュニケーションのスキルといえるでしょう。 しかし、たくさんの言葉を並べればいいというわけではありません。むしろ、会話上手な人は「聞き上手」なのです。あなたがそうされたらうれしいように、一生懸命聞いてくれることが会話上手になる基本なのです。


親しい人と話していると、聴く、話すという会話の内容だけでなく、態度・動作も違うはずです。心が開いているので、身体全体で会話しているのです。

・そのときの感情が違います。
・姿勢が違います。
・手や足の位置が違います。
・動作が違います。
・話し方のリスムが違います。
・話すトーンが違います。
・考え方・価値観に偽りがありません。(あるいは少ない)
・話の内容が違います。
・お互いのペースのバランスがいい。

そして、相手のことに心から興味を持ち、自然なと相槌をうっているはずです。
質問もざっくばらんに投げかけていると思います。

このような状態を初めて会った瞬間から作っている人がいます。もう何年も前からの知り合いのように話しかけてきます。しかも質問が多く話しやすい状態を作っています。オープンになって心が通じてくるから通じるのです。
「馴れ馴れしい」という見方もありますが、節度は行動の「境界」できちんと保っておいます。

「傾聴」という言葉があります。傾聴とは相手の話を熱心に聴くことではありません。相手が話していることを通じて、相手の気持ちになって追体験することなのです。たったそれだけのことですが、スマホを使いながら歩くながら上の空生活に慣れてしまうと、真摯に向き合う力は減退するばかりです。相手の気持ちになって追体験できるボキャブラリーを養うには、まずもって人間への興味を強く意識することです。そうすると「傾聴」は意外と簡単にできるようになると思います。

コミュニケーションは技術の問題ですが、心理的な問題が絡んでいることは少なくないものです。その場合には、技術だけでないメンタル面の解決が必要になりますが、こちらの問題は自身がどのようにしてトリッキーな仕掛けにハマって現在に至ったのか、その仕組みを理解、つまり気づきを起こすことが必要です。性格の問題ではなく、何かに起因した因果関係の末に自身が思い違いをしてしまっているのです。

つまり、会話が上手になりたいという課題は、単なる技術の問題、あるいはメンタルな問題、どちらの場合も「変える」という意識を持てば変われる課題なのです。

ライフスキル講座

2011年10月26日水曜日

ライフスキルで人間力を高めて、幸福な人生、幸福なチームを育む。

【ライフスキルで人間力を高めて、幸福な人生、幸福なチームを育む。】

 同じ商品・サービスを取り扱っていても、利用する人の感じ方が違ってしまうのはどうしてでしょうか?人間力の違いで片づけてしまうのは簡単にしても、それで解決されるわけではありません。

「感じ方」は買い手、売り手にとって、実は一番大きな共通のテーマではないでしょうか。人の行動のすべては感情を満たすことに向けられているからです。購買行動も感情を満たす行為です。商品・サービスを買うことが目的ではなく、満たした
い感情を満たすことこそ目的なのです。

利用する人の感じ方が違う原因はたとえば接客力の違いに影響されますが、その違いはどのようにして起こっているのか、次のような階層になるのではないでしょうか。

1)商品・サービス
2)技術・知識
3)考え方・価値観
4)BE(存在のあり方)


 この内、他者に見えるのは、1)と2)です。 <技術・知識>だけあっても、ほとんど何も作れないし、サービスすらできません。たとえ作ったにしても人の心に届くものは作れない。つまり売れない。売れたにしても、良いものと何でもいい
を使い分ける2極化した生活者の状況に適した判断で便利よく使われるだけです。
売れるけれど利益は出ないという状況に押しやられてしまう。サービスだって同じでマニュアル程度のことしかできないのです。

<技術・知識>を支えているのは、何を美しいと思うか、何を大事にしているか、何を持って善しとするのかという基準となる尺度があってはじめて<技術・知識>は生かされます。つまり<考え方・価値観>があることで、どの方向に何のために
力を発揮するのかという道筋が出来るのです。

さらに<考え方・価値観>を動かしている<BE(存在のあり方)>という階層があります。BEとは、BE YOU、BE HAPPY、あるいはビートルズの名曲<LET IT BE>のように、存在を表現する存在動詞のことですが、日本には馴染みが薄い概念のような気がしてなりません。

 セリフが魅力のシェイクスピアの作品群ですが、その代表作「ハムレット」の有名なセリフ、"To be, or not to be"の翻訳に窮するのが何よりの証明ではないか
と思うのです。「生きるべきか死ぬべきか」というように訳されますが、苦肉の策であって適切とは思えません。それだけ訳が難しいのはふさわしい概念がないからです。自分は「あるがままにか、あるがままではなくか」ということだと解釈しています。そうすると物語との整合性もあるように思います。


<BE(存在のあり方)>とは、どんな風に働いているのか、どんな風に生きているのか、毎日の暮らしで何を信じ、恐れ、喜び、悲しみ、怒り、聴いたり、話しているのか、態度や姿勢のこと。いってみればこれこそが本心です。

<考え方・価値観>は言葉で伝えることができますが、<BE(存在のあり方)>については、その道のプロを除けば、ほとんど言葉にすることは困難です。だからと言ってないわけではなく、誰にでも必ずあります。ほとんどの場合、ドキドキする、楽しい、腹がたつというように感情で表すのが精一杯で、アサーティブであることのバックボーンです。BE(存在のあり方)に気がつかない限り溌剌とした人生を過ごすことも、コミュニケーションもできない。自分とのコミュニケーションが不全
のまま、他者とコミュニケーションできるはずがないからです。

 本心から離れた価値観に基づいた商品やサービスが売れるはずがないのです。いわゆるコンセプトとは、本心から発したものでありたい。たとえば私たちが仕事と呼んでいるのは、この3つの階層全体であり、人はその全体を感じ取っている、つまり仕事シーンでのお客はこの全体と取引しているのです。安いとか、便利だとかいう理由だけが買う場合の原因ではないのです。言い換えれば買ってもらえるというのは、人間力や仕事力を提供している売り手に向けた共感や敬意の表明なのです。

それは恋愛でもなんでも同じで、真に幸福な恋愛に押し上げるか、逃避の場としての恋愛に成り下がるかは、<BE(存在のあり方)>のあり方によるのです。<BE(存在のあり方)>は生きる構えに影響を受けているのは明らかで、適切化のスキルがライフスキルなのです。

ビジネスシーンでのクレームにあるような「どのような教育をしているのか」という質問は、正にそのことを明らかにした言葉ではないでしょうか。その裏には応酬性へのこだわりがある場合が少なくない。応酬性とは、簡単に言うとギブ&テイクのことで、クレームの場合には対価への不満です。

 日本古来の武術である柔道や剣道で求めた世界と同じように<技術・知識>を生かすには、それにふさわしい<考え方・価値観>と、その根底である<BE(存在のあり方)>に重きを置いた考えに共通している。LET IT BE、つまり「自分道」を築こうという次第だ。

【幸福な人生】
 人間は感情で出来ています。人生は時間で出来ています。感情と時間を機能させるエネルギーが、心身の健康です。健康的な心身を機能させるのが世界保健機構が定めたライフスキルです。「幸福な人生」を実現するには、感情と時間をコントロ
ールするライフスキルと下記の二つの力(条件)のあり方、使い方次第です。

◎外的な力
 仕事、社会的地位、役職、資格、経済力、専門知識、人間関係、趣味・・・といったもので外部の評価に依存するものが中心です。外的な力が効力を発揮する範囲は地域、期間など限定的ですが、「幸福な人生」を築く上で適度に必要です。

◎内的な力
 幸福は外から与えられるものではなく、自らデザインし、自分の心が決めるものです。だからまず、すでに持っている外的な力や条件を喜び、感謝することが大切です。そしてさらに自分と周囲に拡大することを考えます。内的な力は、自律的で
ある点が特長的です。人のお役に立ち喜ばれ、良き縁を創る力の基礎で、内的な力そのものが大きな幸福そのものになります。

【幸福なチーム】
 共に協働する仲間や、生活する仲間が幸福であれば、私たちの幸福感は拡大します。組織はリーダーに大きく左右されるので、リーダーが幸福であれば、メンバーも幸福になっていきます。さらにチーム力によって「幸福な人生」を決定づけるラ
イフスキル、外的な力、内的な力を強化し育むことで、より「幸福なチーム」になります。そして一時期の幸福ではなく、持続する幸福を得るには魅力的な目標設定とそれを実現する人間力の活用が重要です。

【幸福な人生とチームを実現するプロセス】
 内的な力、外的な力を育むエネルギーの根源であるライフスキルを高める行動を実践した上で、習慣化して、持続することで幸福な人生と幸福なチームは現実のものになります。ライフスキルを高める行動とは、自分がしたいこと、ありたい状態、
夢を叶えることです。そのプロセスでは質の高いライフスキルが必要になります。それをハードなことと考えるか、幸福な体験と考えるかは自分の選択です。後者でありたいと思います。

それはPDCA(計画→実行→確認→反省)のサイクルに語り尽くされます。PDCAが必要になるのは、対象となることがうまくいかないからです。うまくいかないと誰でも凹みますが、それを跳ね返すのは自分や周囲への人への肯定的な態度で、肯定的
な考え方、肯定的な人間関係のスタイルが力を発揮します。肯定的な態度はライフスキルの総和である基礎的な力とその発展した力の結晶です。つまりライフスキルを育むには、うまくいかないことを怖がらず、自分がしたいこと、ありたい状態、
夢を叶えることに積極的に取り組んでいくことが一番で、その最中の<BE(存在の
あり方)>こそが幸福そのものなのです。

 人は結果が気になるものです。その結果を勝敗の結果に置くか、勝敗に向かう<BE(存在のあり方)>を結果と見るか、自分の選択なのです。その選択の糸口が、自分は自分であり、他者ではないという「境界」であり、「コミュニケーション」なのです。

「コミュニケーション」が糸口になる理由は、人はひとりでは生きていけないという現実に立って、人間同士の潤いが孤立、孤独から救う鍵だと知るからです。潤いを作るためには拒否、拒絶ではなく、あなたはあなたのままでいい<BE(存在のあ
り方)>を肯定するからです。それを実感するには、勝敗の結果に置くのではなく、勝敗に向かう<BE(存在のあり方)>に結果を見る習慣をつけることです。その習慣化の具体的な手法がPDCAを使うことであり、PDCAを使うために自分がしたいこと、ありたい状態、夢を叶える行為が必要なのです。

 つまりコミュニケーションにもっとも必要なのは自分と相手を励ます力であって、そう思えば自分がどう見られているか、自分を相手より下位に置いた自分への注目しすぎに逸脱のありようが見えてくのではないでしょうか?

繰り返しになりますが、それにしても<BE(存在のあり方)>を膨らましていくのはPDCAを使い倒すことなのです。時に人はそれに疲れますが、停滞期があっても方向と道筋さえ見えていたら、また力を発揮してみたいと思うものです。

2011年10月22日土曜日

コミュニケーションの90%は非言語メッセージ

非言語のコミュニケーションは全体の80~90%占めています。

会話は言葉のキャッチボールですが、円滑な会話では、実際には言葉が占める割合はそんなに多くはありません。

スポーツ選手がプレイ中に、観客やインタビュアーと会話することはありませんが、動作・表情・態度から、いまどんな気持ちなのかが判断できます。言葉を使わなくても相手の感情を聴くことは可能なのです。

逆に言葉を使っても、感情を込めない話し方からは気持ちを読み取ることは困難なのです。ボディランゲージが豊富な欧米人が全般に感情表現の苦手な日本人とコミュニケーションをして「何を考えているのか、分りにくい」と言うのも当然なのです。

分りにくい日本人であっても、「アイコンタクト」と「うなずき」に代表されるように、一般に私たちは「非言語」の部分から、言葉以上に沢山の量のメッセージを発信し、また受け取っています。

 会話ベタという人は、何を話したらいいのか、おもしろいネタはないかと悩まれますが、会話においては「非言語」の情報が、もっとも重要なのです。会話中に「アイコンタクト」や「うなずき」のボディランゲージで反応することは、話しやすくさせます。無反応なら話を続けていいのかどうか迷わせ、相手のモチベーションを下げさせる原因になります。
コミュニケーションが苦手な人は、自身が相手に話しやすくさせる雰囲気を作っているかどうか、思い起こしてみてください。

自分が好きになった人は、重要なことは文字以外に何一つ言葉にしませんでしたが、誠実な人柄から発する「アイコンタクト」の強さと仕草で、言葉以上に確かな想いを雄弁に伝えてくれました。非言語のメッセージは隠くしようのない本音であることが多いのです。

だからといって、非言語に頼りすぎるのは、誤解のもとなので気をつけたいものです。言葉をさらに雄弁にするための補助と考えて、大事なことは誤解のないように言葉にしたいものです。非言語の部分は誤解されないように特に注意したいものです。

人柄は「非言語」のメッセージのひとつであることも忘れないようにしたいものですね。

2011年7月18日月曜日

夢ノートに書くこと

昨日は一般的に使われている手帳、つまりスケジュール帳のことを書いたので、今日は夢ノートのことを書こう。

否定的な思考、感情を肯定的な思考、感情に変えるのは肯定的な思考、感情だけだ。肯定的な思考、感情が成功を呼びこむ。成功した後にポジティブになれるわけではない。この事実を見誤っている人が多い。このシンプルな事実が分っていたら、自分の「生」を自分の内側に引き込むにはポジティブな行動をするしかないのだ。

自信とは、本来自分の内側の力によるものだ。自信のない人が外側の力、つまり他者の評価を欲しがる。それが内側の力を補強できない原因になっていて、悪循環が止まらない。自信とは自分のイメージにすぎない。内側の力に知性を足すことで内側の力は動く。知性とは本質を読み取る力、本質でコミュニケーションする力だと思う。

人生の本質は大いに楽しむことにある。楽しみと快楽は別のもので、肯定的にいまこの瞬間に没頭することが楽しみであり、否定の苦痛から逃れるために我を忘れるのが快楽だ。外側に求める快楽からは何も生まれないが、楽しみは内側の心のなかにある。

感情は、内側の力を信頼し育む者には薬になるが、そうでないものには毒として働いてしまう。肯定的な感情を目的にすると、どのような目標も失敗は不可能になるが、それ以外の扱い方をするとあらゆる面でネガティブに働いてしまい人生の本質から遠のく結果になる。その選択は自分に与えられている点に注目したい。

たとえば金持ちになりたいという目標の先には、安心したいとか、家族を楽にさせてやりたいとか、感情が潜んでいる。これが真の目的だ。お金は持ちたい感情を実現するツールでしかない。恋愛感情も同じで必ずしもその人でなければならない理由はない。その人と共に過ごすことで得られる感情は誰でもいいというわけではないが、他の人からも得ることはできる。

むしろ、そのことに取り組む自分の心の在り方が重要で、目的と目標を明確にしてポジティブな感情で行動していると結果もポジティブだ。目的と目標を曖昧にしてネガティブであるほどに結果も芳しくなく。ネガティブだとPDCAのプロセスが回せない。PDCAのプロセスの途中で停止してしまう。

目標達成はPDCAを迅速にグルグル回すしかない。これについてはアホも天才もない。みんな同じだ。グズな人の欠点は遅すぎて、回す頻度が少ないので進まないことだ。
芳しい兆候が見えてこないので、楽しくなくなりプロセスのどこかで停止してしまう。つまり感情的な行動で機能停止状態にしてしまうのだ。

無心になると、感情は顔を出さない。楽しくやれたら疲れもないが、楽しめないのなら無心になることだ。そうするといまこの瞬間に没頭できる。無心になれないときには、達成したときのよろこびを想像しよう。それは力になる。忘れたらまた達成したときのよろこびを想像する。繰り返す、何度でも繰り返す。その役目をしているのが「夢ノート」だ。身近なところに置いて一日に何度も繰り返して読む。

達成したいこととそのときに味わいたい感情を読む直す。その元気でPDCAを迅速にグルグル回す。PDCAを迅速にグルグル回すために一日に何度も夢ノートを繰り返して読む。

夢ノートには、達成したいこと、達成する期限、達成したときのよろこびの感情が書いてある。

2011年7月17日日曜日

自分にしっかりコミュニケーション

結果をきちんと出そうと意識して毎日を暮らしている人がいます。
その一方で努力して暮らしている人がいます。

それぞれ目的が違います。
結果を出すことと、努力することとは似ているようでも気持ちのあり方は全く違います。

前者は成果主義、後者を結果主義と呼んでいます。

主にサラリーマンには、結果を出すことよりも、努力していることを認めてほしい人が多いと言われますが、経営トップや自営業者にもそういう方は少なくありません。その逆もあります。どちらにしても生き様の心根が全然違ってきます。

人は意識しないことはできないようにできています。

手帳の使い方も成果主義、結果主義では違ってきますが、スケジュールを書き込むものだと思っているので、具体的にどう違うのか、よく解らないようです。

夢を実現するために手帳は大いに役立つツールですが、決意の違いも、成果主義、結果主義に通じる点があり、それぞれ使い方は違います。


手帳はスケージュール帳でもあるが、その意味ではマイルストーンを整理するものです。それを書かずしてスケージュールを書き込んでも、素晴らしい効果は得られないので、手帳はテレビ並みの楽しみも味わえない。

使い方で手帳は、あらゆるメディアを凌駕する。当たり前だ。自分のワクワクがつまったガイドブックであり、自分研究ノートだ。これが面白くないはずがない。もし面白くないのなら、自分の生活が楽しくないからだ。

とにかくPDCAが行動では大事。手帳には計画を書きますが、計画には活動の目標と結果の目標があることを認識しておき、それぞれのフォローをすることが大事。

活動の反省は文字量が多いので、日記でしています。結果の目標の進行状況は、次の一歩の原因になるので、手帳に書き込みます。だから手帳は毎日更新が原則になり紙面は汚れます。考えている最中にできる汚れは気にならないが、その結果の整理されたスケジュールはスッキリがいい。そこで結果はiPhoneに送ってしまうことで、アラームもできる。アラームの重要は、いますることに集中できるように、忘れることにあるのです。

そしてなにより完璧主義を笑い飛ばした上で次のことを実行する 

・期限を切った感情の目的、行動結果の目標を設定。
・いますぐ実行してPDCAする。
・大きな目標はマイルストーンを設定して、今日の分は今日達成する
・自分が失敗したと思わない限り失敗はない

ダイナミックな目的と行動。実はコツコツなんだけど、その日その日は全速力。


誰にでも、いろんな感情があるけれど、感情も主義も手帳で育てることが出来る。成果主義、結果主義どちらを選ぶか、それも個人が決めることです。

あなたの手帳のポリシーは成果主義?結果主義?どっちかな。手帳は自分にしっかりコミュニケーションツールです。


2011年7月1日金曜日

深くて強い愛情があっても別れることはある。

不幸にして片親に育てられたり、苦労して育っていると、とても忠実で、恋人や結婚相手を裏切らない人が多い。いい恋愛や結婚の必要条件だが、限度があることは知っておいたほうがいいようです。

お互いの限度はふたりの間で取り決めるのが一番いい。

出会って、恋人の関係になっても、初めの頃って、違う恋人を持っていたりすることもあります。その時に、漠然とではなく、パートーナーシップをふたりで決めるとは心で感じる信頼関係を作るうえで効果的です。。

そうして、いったん決めたらお互いに約束を守ることが大切です。
たとえば、デイトの約束に5分遅れただけでもヒステリックになる人と、時間の観念が曖昧な人の組み合わせなら、お互いの認識と調節が必要です。

アサーティブになれば、これが重要なことですが、率直、誠実、対等、自己責任の四本柱を守って、互いを尊重して意見を交換すると、調整ができます。もし遅れる場合はどうするとか、それでもうまくいかないときはどうするとか、話合って接点を見つけることができるでしょう。

「絶対見捨てない」「絶対に裏切らない」という切実なまでの決意は大切ですが、過度な忠実さは現実的ではないないのです。ふたりは孤島に暮らしているわけではなく、他者と混じって暮らしています。何があるかも分らないし、どんな影響を受けるかも分らない。

過度に忠実でありたいと思う人には共通した特徴があって、すでに終わっている関係、くされ縁にも終止符が打てないことです。その裏には喪失体験が働いていて、新たな喪失体験をしたくない思いが強いのです。結局新しい喪失を先のばしにするだけになる場合が少なくありません。

それでもいいと考えるのも価値観ですが、決して健康とはいえないのです。人はいまこの瞬間を生きることが自分を活かす上で大切です。それができなくなります。つまり現実逃避を繰り返すだけになり、徐々に現実から遠のき、心がぼやけてしまいます。自分の心も、他者の心も見えなくなるのです。

愛情は永遠ではない。こんなことは理屈で考えたら分かることです。永遠でないものを長続きさせるには、毎日新鮮な空気を送り込み、活動させることは欠かせないのです。放置したら、元気で生き生きしていた愛情もくたばってしまいます。

ところが、くたばってしまった関係をいじくるのが好きな人がいるのです。「絶対見捨てない」「絶対に裏切らない」と決め付ける過度に忠実な人にもその傾向は強いのです。結局、本当のところ、別れたくないのに、別れたいと思っている状態が好きだとか、別れたいのに、別れたくない思っているのが好きなのです。自分の真実に反対なことをする人です。

自分に誠実でない忠実って、まず自分とのコミュニケーションが断絶しているのです。ですから相手にも誠実ではありません。だからこういう人は冒頭に言ったようにアサーティブになれない。お互いの限度はふたりの間で取り決めるのが一番なのに、取り決めをしようとしません。

以前、交際していた女性と一週間に何度会うか、取り決めをしようとしたら、「週に3日がいい」って言うので、自分も都合が良かったので、賛成したら、その程度にしか自分を愛していないのかとヒステリックに怒られました。女心を読めという問題のようですが、アサーティブでないコミュニケーションを繰り返していると、お互いに尊重できなくなってしまいます。どのように、いまこの瞬間に、しっかり覚醒して生きるかが大事なのです。

自分の真実に反対なことをする人は、幼いときから、不足を願望に変えて、「もし、○○だったら、できるのに」というような考え方を繰り返してきた可能性があります。このパターンはとっても危険です。

「なるほどその通りです。しかし現状は○○です。もし○○だったら、できるのに」これではいつまでも実行が起こりません。自分はこれを「YES,BUT,IF(なるほど、しかし、もし)」・・・悪魔の構文と呼んでいます。ビジネスの現場では年中出会う話し方です。楽しくなくなる瞬間です。

「絶対見捨てない」「絶対に裏切らない」という切実な決意は、実行することで、花開かせてください。相手に対する態度を決め付ける前に自分とのコミュニケーションをしましょう。


2011年6月13日月曜日

恋する力

恋は大きく分けて2種類しかない。
相手を幸福にしたいと思って始まる恋
幸福にしてほしいと思って始まる恋

こんなに簡単なことなのに、ストーカーなどややこしい事件になるのは、両者が幸福にしてほしいと思っているからだろう。 相手を幸福にしたいと思っていたら事件になりようがない。幸福にしたいと思っていたら、失恋させたら痛むが、 失恋しても痛みが続くこともない。寂しくなることはあっても、相手のためなのだから納得する。一貫してポジティブなのだ。

交際中に、相手の想いが見極められないのは自分のことばかり心配しているからだ。そうすると他の異性に目が行くのは当たり前で心が離れるのも成り行きだ。

相手が自分を幸せにしたいと思っているのか、あるいは幸せにしてほしいと思っているのか判断するのは相手を見ていたら分かる。それも分からない恋なら、恋する資格はない。恋する以前に他者への思いやりについて学ぶべきである。他者への思いやりが働かない者が自分以外の人を愛せるわけがない。

幸福にしたいと思っている者も、幸福にしてほしいと思っている者も、「君を幸福にしたい」というが、他者への思いやりが働く者には、それが本当かどうかはすぐに分かる。

「国民のために全身全霊で頑張りたい」と言う総理大臣と同じだ。軽々しく言う総理大臣もいれば、心からそうしたいと思う総理大臣もいるが、メッキがはがれるのに時間はかからない。権力を握れば強欲さが顔を出す。

恋愛も同じで主導権が移ればメッキがはがれる。しかし、それでは遅い。幸せにしてあげたいと両者が思い合えるには、両者が、あるいは片方が自分の抱えている未処理の問題を解決できていないとできないことだ。ところが未処理の問題を解決するために恋愛するのがほとんどだ。

「なんで、彼女が好きなの?」「好きに理由なんかありません。」
もっともだ。
しかし、本人もよく知らない心の奥にはちゃんと自分の事情があるし、同じように相手にも事情がある。
この事情こそが恋愛の動機であり、相手を受け入れるか、受け入れないか、決定的な理由になる。それが相手を知るということであり、自分を知ることだ。相手を知らずに「好きに理由なんかありません。」というのは理由の意味が混同されている。

自分を知ることも、相手を知ることもなく、知ろうする意欲もないままにする恋愛は狂気でしかない。気になることは相手は自分を愛しているかどうかというだけなら、永遠に同じ風が吹いているかを確かめたいというのと同じだ。

では、幸福にしてほしいと思うばかりの者と、相手を幸福にしたいと思っている者の場合はどうか?親子にも似たような関係であればそれもよしだが、当人の錯覚にすぎない場合は共依存になる。

さて、幸福とはなにか?
人によってその定義は様々でも、そのいずれもが健全に機能していることを条件にしていることに間違いはないだろう。

つまり結婚とは、機能している健全な家庭を築くことである。それには当人たちが健全に機能していることが前提条件である。相手が機能するように互いにサポートしながら二人で機能している健全な家庭を築くプロセスこそが幸福なのだ。

幸福にしてほしいと思って始まる恋が、場当たり的に幸福にしてほしいと思っているだけならディズニーランドで過ごすことと変わらない。





2011年5月27日金曜日

やさしさ上手

健康で大人として機能している人は、他人を盲目的に信じることも、反対に頭から疑うこともしません。中間に立つグレーな感じです。こういう人は、まず自分と自分の感覚を信じます。
その内的な感覚を大切にして、そこから相手が信用できるかどうかを判断をスタートさせ、判断する材料を求める一方で、自分の判断も強めていきます。

 時には判断を間違うこともありますが、間違ったにしても、それが原因「人は信用できない」と極端に傾くこともありません。

これが健全な人の状態です。



 ところがある種の人は、思うように人を信用することができません。思うようにとは、思いたいけれど、いざとなると出来ないのです。つまり愛した人に対しても同じだということです。
このため、疑いの気持ちが消えず執拗に確かめようとします。
それは自分を守る上で欠かせないスキルだったのです。だから今日まで無事に生き抜けたと信念化した無意識があります。

否認だらけの機能していない家族で育ったために、自分の感覚や感情、考えを容易に頼りにできないのです。親の反応が予測不能で一貫性を欠いていて、気まぐれにかわいがられたり叱られたりしたため、

他人を信じられなくなってじまったのです。アルコール依存症の親はその典型で、アルコール依存症の親を持った人は、その気まぐれに「不信」という深い傷を負っていることが少なくありません。

可愛がるかと思うと、数分後には別人になるという体験を繰り返し、繰り返ししてきたら、目の前で起こっていることが信じられなくなっても当然なのです。

 そのせいで、成人して親しい間柄になっても、自分の気持や考えを信じられず、伝えることに過度に不安になっているのです。心のなかをさらけ出したら傷つけられるか見捨てられるかのどちらかだと思ってしまうからです。

 落語に正式なタイトルは忘れましたが「饅頭怖い」というのがあります。

 男が集まって饅頭の話をしていると、ひとりの男が「饅頭の話をしているだけで気分が悪くなった」と言い出し、隣の部屋で寝てしまいます。
そこで皆は「あいつを饅頭攻めにしていじめてやろう」と金を出し合い、饅頭をたくさん買いこん男が寝ている部屋に投げ込みます。すると目覚めた男は怖がりながらも「ああ怖い、怖い。こんな怖いものは食べちまって無くしてしまえ」と言って饅頭を全部食べてしまいます。

いたずらした側の連中は、覗き見で様子を伺っていましたが、どうも様子がヘンだと考え、一杯食わされたことに気付きます。怒った連中は「本当のお前の怖いものは何だ!」と聞くと・・・・今度は「このへんで濃いお茶が一番怖い」とオチがつきます。

 コミュニケーションに悩む人の場合では、オチの部分がなく、このように自分が好きなものを伝えると奪われて、自由を失うと考えてしまうのです。それは親との関係で学んだ結果で、理屈ではなく身にしみこんでいるのです。体罰として食事を与えてもらえなかった子供のことを思い浮かべてください。

目の前で親は自分の好物の料理を食べ、自分には与えられず空腹を我慢する。こういう体験をしてきた人が、まるで感情がないかのようにふるまうことがあっても決して不思議ではないのです。

身体の障害は目につき判断もできます。心の障害はなかなか分りません。あの人変わってるというのは、簡単ですがその言葉や態度が無神経に傷つけていることも少なくありません。

 やさしさ上手になりたいものです。






2011年4月30日土曜日

ストレス

ストレスというのは、悪いことのように考えられるけれど、そんなことはないんですよね。
幸福になろうとしたら、ストレスの嵐の連続みたいなものです。

だって、好きな人がいて、告白しようとしたら、フツーの人ならストレスが来る。好きなほど強いストレスが襲来する。それを嫌って抑圧したら、やっぱりストレスに攻撃される。だったら恋をしなければどうだということになるが、それも寂しくてストレスになる。

恋愛がうまくいかない人は、ストレスとのつきあい方がまずいんですよね。とってもネガティブな扱いをして、ネガティブなコミュニケーションをする。その方が楽だからね。でも自分が楽した分、相手のストレスになることを忘れてはいけない。

ポジティブな方が本当は大変なんですよね。 ビジネスもそうだけど、恋愛は50%自分、相手50%が基本だからね。お互い別人格であることを忘れずに境界をしっかり守ってほしい。恋愛の魅力は甘えられることにあるのは間違いない。だからと言って、ことが終わった後に「人生よろしくね。」って言われたら引いてしまう。いくら好きでも冷めてしまう。責任とるのが嫌ではなくて、自分のことを自分でケアする気のなさに嫌になる。自分の責任引き受けて生きてる人間なら誰だって「コイツなんだ」と思うはず。

逆に自分の責任を引き受けて健気に生きてるから、「ああ、助けてあげたいな。オレもしんどいけど、コイツのためなら無理してもいい。」と思うわけで、そこで互いに成長する動機ができて、目標ができてくる。それはストレスを苦にしない状態です。ストレスを我慢するのではなく、楽しめる状態。それを続けられることが結婚ということだ。だから「結婚しています」は過去形でなく、現在進行形なんだよね。

結婚している人を好きになって告白したら、「私、結婚しています」って言われるだろうけれど、その意味が「もう無理です」という意味なのか、「現在、他の人のためにがんばっています」と意味なのか、それは当人にしか分からない。でも「現在、他の人のためにがんばっています」という意味なら、応援したくなるのが本当の恋心だと思う。だから清算されていない不倫って快楽だけを求めた行為でしかない。

愛することは、成就していても、見込みがなくても同じことです。恋の思いが叶う見込みがなくてもストレスを楽しめる状態にあるとき、好きを超えて愛している状態になる。ストレスに負けるようなら恋でも愛でもなく、それは依存という。 ワインのブランドにこだわる一方で、人間を酒やワインと同じレベルに扱って、「好き」なんて言うもんではない。





2011年4月18日月曜日

大人同士の親密なコミュニケーション

見捨てられ不安が強い人と、そうでもない人がいます。

見捨てられ不安が強い人は過去に重要な誰か、たとえば父親とか、母親にそういう目にあった人が少なくありません。感情的になる人にはそういう人が多いのは仕方がないといえばそうです。つらい思いをこらえて成長してきたのですからね。

だからといって、感情的になっていいことはありません。

感情的になる人って、本当は、自分をすべて受けとめてほしいのです。
自分の中の小さな子どもが、きびしがって泣いているのです。

けれど、それを誰かに求めることには無理があります。
相手の価値観でしか考えられないからです。

寂しくて泣いている自分という子どもを抱きとめてあげられるのは、自分以外の誰かではなく、自分自身しかいないのです。
親密さを育てていくヒントがあります。

大人同士の関係に、自分の中の子どもをすべりこませないことです。
なぜなら、いまの自分は大人だからです。

自分の仲の子どもがパニック状態になりそうになったら、自分がしっかり抱きしめて、「いまは待ってね。あとでゆっくり気持ちを聞くから、今は大人の私にまかせて」と言い聞かすのです。
ちょっと二重人格みたいだけど、訓練ですから、自分で自分をコントロールする意識が必要です。慣れたら意識しなくても、自然にできるようになります。

大人の親密な関係は、お互いの境界がしっかりしていなければ育ちません。

なぜなら、どんな人にも限界があるからです。人はそれぞれに歩んできた歴史があり、時間や空間があります。以前我慢したけれど、もう同じ経験はしたくないと考えている人に、そのくらい我慢してもいいでしょう」と思うのは、境界を無断で侵入していることなのです。なにごとも、すべて思い通りになることはないのです。




2011年3月8日火曜日

剣の教え

剣道の教えにこういうのがあります。

「相手と向かい合って相手の肩に隙があると思うと、心は相手の肩に縛られてしまう。腕に隙があると思えば、心は腕に縛られてしまう。勝てると思うと心は勝つことに縛られてしまう。そうではなく、心は一切どのにも置かない。一点に気力を集中しながら心はどこにも置かない。これが剣の極意だ。」

宮本武蔵を指導したと言われる臨済宗の名僧、沢庵和尚の教えです。


この教えはフロー状態に通じています。

フロー状態とは、無心でなにかに没頭して取り組んでいる状態。「時のたつのも忘れて」とか「寝食を忘れて」とか・・・集中していると、あれこれ考えなくなります。あるのは「いまこの瞬間だけ」

いまこの瞬間だけに没頭した時間が流れた一日が最高の一日です。自分は消えてなくなっています。そのとき、自分はどこに行ってしまうのでしょうか?時間そのものになっているのです。

自分が消えてしまうのに幸せな時間・・・・ここに幸福の正体を見ます。
コミュニケーションがうまくできないと悩む人は、自分のことが気になって仕方がない。コミュニケーションが上手な人は相手に集中して自分のことは忘れています。そして心はニュートラル。自由。

2011年3月6日日曜日

ライフスキル



仕事は楽しいものだけど、同じくらいに不快感の多いものです。それに比べると快楽たとえば飲食、セックス、遊興には不快感が少ない。しかし量的に限度を越えると無感動になり、比例して依存的になります。快楽には発展がないのです。
楽しみは、仕事や勉強など、不快感の多いことに潜んでいて、見つけるのが決して容易ではありません。つまり宝物探しに似ています。

要するに、この世の中は、なにかにつけて不快な場所なのです。その最大の原因が人間との関わりにあります。その証拠に一生の内に出会う数は多いのに、信頼できる関係、友人、愛情を交歓できる異性の数は一握りにすぎない。

"Life Skill" ・・・・言葉の上では「生きる力」がもっとも近いのかも知れないが、この翻訳は政治家やお役人にはあまり受けが良くない。確かにどうもピンとこない。ライフスキルには、運転技術と同じイメージがあるので、「生きる技術」の方がしっくりするが、技術というと誤解されそうだ。どう翻訳しようが、中味は変わらないのです。

ライフスキルとは、不快感のなかから、楽しみ、喜びを見出せる技術です。 感情の処理の仕方が上手で、同時に楽しみを見つけ出して楽しんでしまう。対リーガーに転進した選手が「楽しみたい」と発言することに通じています。

これはスイッチチェンジという技術の問題です。物事の見方を変えることは、我慢することではありません。我慢は抑圧でしかなく、我慢を処理しようとして快楽に走る。臭い物にはフタをしろ式に、その場だけの対応なので、実はダメージになっています。

スイッチチェンジ(物事の見方を変える)はポジティブな方法です。そのコツは人と人の間にある「境界」への深い理解と温かいまなざしです。私とあの人は別の人格、私は私、あの人はあの人、その違いを認識して、尊重する。だからこそ親密の交歓が可能になるという事実を受容する。ライフスキルが確かだと、悲しみや怒りは確実に激減します。感情的にならないので喜怒哀楽が減ります。それが減ったとしても、取って代わる感動が育ち、人生は変わります。




2011年1月26日水曜日

見えないものが見える人

なにをするかよりも、どんなふうにするかが暮らしを鮮やかにします。
しかし、それを本当に知っていて、実践して人は一部しかいません。

大人なら忙しいのが普通です。
だからできるだけ時間をかけずにすませたいと思う。だからと言ってどんなふうにするかといことは違う次元のことです。

スーパーで売っているパックに入った惣菜をそのままの容器で食べるのと、お気に入りの食器に移し変えて食べるのでは全然違います。

プレゼントだって同じこと。買ってきたものを、そのまま右から左に贈るのではただ物を贈るだけのこと。それでヨシとするなら、お金を出せばいくらでも立派なものが手に入ります。だったら自分よりお金持ちの人には叶わないことを認めることです。そんな負け犬のような生き方はしたくないし、贈る相手にそんな気持ちを贈りたくない。モノさえもらえたら何でもいいのよと考える即物的な人を相手にしたくもない。

だからこそ、なにを贈るかよりも、どんなふうに贈るかが大事だと思います。他の人には真似のできない贈り方に心を砕く。そこに想いがこもる。何事にも想いをこめていくことが、自分の生きた証しなのです。

同じものを見ていても、全く違うものを見つける力は、そういうとところから生まれて育ってきます。それは人間をはじめあらゆること、ものへのつきあいかたに違いが出てきます、即物的な自分になりたくなければ、なにをするかよりもどんなふうにするかにこだわったほうがいい。

ラーメンいっぱい食べるのに、いちいち想いをこめてなんかいられないというのは、そうかも知れないが、そうしてセンスが磨かれていくことも忘れてはいけない。
ディスプレーの小物ひとつにして置き方が変わる。置き方が変わるのは、相手への気配り、アプローチが変わることに発展します。同じ商品を他店と同じように売っていても、どう売るかという点ですっかり変わり、売上の違い、リピーターの違いに変わる。

おしゃれなお店と評判のお店だったにしても、そこに働いている人がおしゃれ、センスがいいとは限らない。とんでもなく即物的でバッドセンスな人が集まっている場合だってあります。それでもなんとか評判を得ているのはマニュアルのおかげということだってあるのです。ただ指示されたように疑いもなくやっているだけ。主体性なんかどこにもなく。言われたことだけしていたらいいという考え。そんな店からは主体性のある人は去っていきます。

いいなりになってマニュアルを尊重する働き方が悪いと言っているわけではありません。それがルールなら遵守することは必要ですが、そこに主体性、つまり責任を引き受ける積極性がないとつまらないものになってしまいます。そんな店では本当の意味で責任を引き受けない人が責任者としてポジションを保てる仕組みです。店は人で決まるのでいくらでもレベルは下がっていきます。

主体性がないからセンスがいいと思われているなんて気持ちが悪くありませんか?ロボットと同じです。人と同じことをしていたら安心というのは、ほとんど依存症の世界です。

見えないものが見える人、聴こえないことが聴こえる人でいたいと思います。それがリーダーの条件です。つまり責任から逃げる人ではなく、責任をとりたい人でいたいということです。自分の世界はもっと楽しくできるのだから。

2011年1月24日月曜日

「絶対に見捨てない」という発想

「ノルウェイの森」のワタナベ君が持った直子への「絶対に見捨てないからね」という気持ち。それは愛情たっぷりで、尊いものだと思うんですよね。

古くは日本中を感動させた実話「愛と死をみつめて」に代表されるようにです。ミコ(女性)とマコ(男性)と呼び合った二人の物語。この場合はミコに「起こった「軟骨肉腫」という難病との戦いでした。阪大病院で出合ったふたりが、同志社大学、中央大学と離れ離れになりながらも、文通を絶やさず、悪くなる一方のミコを励まし続け、最期を看取るまでの物語でした。

この場合の「絶対に見捨てないからね」と、ワタナベ君の「絶対に見捨てないからね」を同じように考えるわけにはいきません。ミコは不治の病に冒され顔の半分を失いながらも、気丈に生きようとし、愛し愛される日々を精一杯に輝かせようとしました。直子には、それがあるのか、ないのか分らない。映画では性の問題のようにセリフになっていますが、直子がこだわっているのも実はそういう問題ではない。その背景にある問題を観客に考えてほしいのだろうと思います。

女性に限らず男性でも、愛しているほどセックスができないということが起こります。それは普通ではないけど、気持ちがその場から、どこかへ飛んでいってしまうのです。その、どこかで起こっている問題を解決しないと、いくら「絶対に見捨てないからね」と意気込んでも見捨てざるを得ない状況に追い込まれて、見捨てることになる。

見捨てるまで、見捨てさせようとする行為が止まらないのです。なぜなら目的が見捨てさせることにあるからです。

愛している、愛してと言いながら、その一方で見捨てさせる行為をとる。相手には「愛して」と言った事実が残り、見捨てさせる行為の「行為」だけが見えて、「見捨てさせる」気持ちが見えません。この場合の「行為」をミコの病気のようにとるから、「絶対に見捨てないからね」と考えてしまうのですが、そこが間違っているのです。

励ます点ではどちらの心情も同じですが、見捨てないことが見捨てさせようとする気持ちをエスカレートさせてしまうのです。つまり励ましている人が病原菌の役割をしてしまう。ワタナベ君がそれを知っていての慟哭なら、その後の人生で別人になってしまっても不思議ではありません。

しかし、どのような関係であっても、「絶対に見捨てない」あるいは「絶対に別れない」というのは不自然です。別れることがいいとは言わないまでも、どのようなことがあっても別れない関係とはいかなるものでしょうか。