恋は大きく分けて2種類しかない。
相手を幸福にしたいと思って始まる恋
幸福にしてほしいと思って始まる恋
こんなに簡単なことなのに、ストーカーなどややこしい事件になるのは、両者が幸福にしてほしいと思っているからだろう。 相手を幸福にしたいと思っていたら事件になりようがない。幸福にしたいと思っていたら、失恋させたら痛むが、 失恋しても痛みが続くこともない。寂しくなることはあっても、相手のためなのだから納得する。一貫してポジティブなのだ。
交際中に、相手の想いが見極められないのは自分のことばかり心配しているからだ。そうすると他の異性に目が行くのは当たり前で心が離れるのも成り行きだ。
相手が自分を幸せにしたいと思っているのか、あるいは幸せにしてほしいと思っているのか判断するのは相手を見ていたら分かる。それも分からない恋なら、恋する資格はない。恋する以前に他者への思いやりについて学ぶべきである。他者への思いやりが働かない者が自分以外の人を愛せるわけがない。
幸福にしたいと思っている者も、幸福にしてほしいと思っている者も、「君を幸福にしたい」というが、他者への思いやりが働く者には、それが本当かどうかはすぐに分かる。
「国民のために全身全霊で頑張りたい」と言う総理大臣と同じだ。軽々しく言う総理大臣もいれば、心からそうしたいと思う総理大臣もいるが、メッキがはがれるのに時間はかからない。権力を握れば強欲さが顔を出す。
恋愛も同じで主導権が移ればメッキがはがれる。しかし、それでは遅い。幸せにしてあげたいと両者が思い合えるには、両者が、あるいは片方が自分の抱えている未処理の問題を解決できていないとできないことだ。ところが未処理の問題を解決するために恋愛するのがほとんどだ。
「なんで、彼女が好きなの?」「好きに理由なんかありません。」
もっともだ。
しかし、本人もよく知らない心の奥にはちゃんと自分の事情があるし、同じように相手にも事情がある。
この事情こそが恋愛の動機であり、相手を受け入れるか、受け入れないか、決定的な理由になる。それが相手を知るということであり、自分を知ることだ。相手を知らずに「好きに理由なんかありません。」というのは理由の意味が混同されている。
自分を知ることも、相手を知ることもなく、知ろうする意欲もないままにする恋愛は狂気でしかない。気になることは相手は自分を愛しているかどうかというだけなら、永遠に同じ風が吹いているかを確かめたいというのと同じだ。
では、幸福にしてほしいと思うばかりの者と、相手を幸福にしたいと思っている者の場合はどうか?親子にも似たような関係であればそれもよしだが、当人の錯覚にすぎない場合は共依存になる。
さて、幸福とはなにか?
人によってその定義は様々でも、そのいずれもが健全に機能していることを条件にしていることに間違いはないだろう。
つまり結婚とは、機能している健全な家庭を築くことである。それには当人たちが健全に機能していることが前提条件である。相手が機能するように互いにサポートしながら二人で機能している健全な家庭を築くプロセスこそが幸福なのだ。
幸福にしてほしいと思って始まる恋が、場当たり的に幸福にしてほしいと思っているだけならディズニーランドで過ごすことと変わらない。