恋の痛みはつらいですが、恋のかたちは様々だから、私の痛みとあの人の痛みが同じであるはずがない。
それだけに誰にも分かってもらえないのが恋の道。
でも、突き詰めれば自己肯定感の崩れと孤立の痛み。
孤立感は孤立していると思えば孤立してるし、していないと思えば他人には見えてもしていない。
自分は女のひとり飯が好きだけれど、それを痛々しいと思う人もいれば、可哀想な女と思う人もいる。
自分は人目を気にしない女一匹の心意気を感じてカッコいいと思う。(本人はそんな大袈裟でなくただ楽しんでいるだけだと思うが)
逆に人目を気にして、ひとり飯はできないという人もいる。
どっちにしろ人目を気にしすぎは良くない。理由は受け身だからです。主体性を大切にするなら、ご飯くらいひとりで食べようが百人で食べようがどっちでもいい。
恋の痛みは<主体性>と密接に関連しています。
受け身だと「傷つけられた」と思うが、主体性があれば「惜しいことをした」となって、随分ニュアンスが変わる。
傷ついたと思えば傷は残ることになるが、失敗なら誰にもあることでまたやり直せばいいになる。同じことでも受け取り方は随分違うのが、起こったことはひとつしかない。つまり現実は自分が創っている。
これはすごく重要なことだと分かっていただけることですが、「理屈はそうだがそうではない」と思う人が大半です。
しかしそれが錯覚なのです。よくよく考えてみてください。
それが理解できない理由に、何度もいう<Be~在り方>があります。
禅ではこのように言っています。
無心とは心が無い空虚状態ではない。良寛和尚が「花無心にして蝶を招く」の句を示されたように大自然のありのままの生き生きとした姿に“それ”はある。
人は誰もが“それ”のど真ん中にオギャーと生まれてきたはずなのにいつしか、知恵とともに欲を持つようになり「ああなってくれ」「こうなるのが当然だ」と、煩悩妄想の世界で右往左往している。
ここに登場する”それ”こそが<Be~在り方>なのです。
「ああなってくれ」「こうなるのが当然だ」というのが< DO~する>の産物です。
これによって人間は苦しんでいるのが世界共通のパターンなのです。
それは幼い頃から、親や先生に< DO~する>で評価され続けてきたからです。
お座りができるようになった。ハイハイができるようになった。歩けるようになった。字が読めるようになった。成績が良くなった。。。世間でいう<成長>とはこの連続なのです。
しかし<在り方>が立派になったという親も先生もいません。
それを補うのが童話や文学でしたが、最近はいろんな意味で小説も映画も、売れることが条件になりすぎて壊滅状態で拍車をかける有り様です。
スポーツもそうです。日本のスポーツは柔道、剣道というように道がついていました。文武両道を尊ぶ文化があり、それをスポーツに求めたのです。
これは日本の特殊な文化というわけではなく、スポーツに<在り方>を求めるのはアメリカでも同じです。
HPウェイという有名な言葉もあります。HPとはIT企業の第一人者ヒョーレッドパッカード社のことでHP独自の企業文化を意味しています。スターバックスは意識的に言葉にしてはいませんが、行動で示すことを本分として世界中で続けています。
私たちは<DO~する>で評価される世界で暮らしています。そのため< DO~する>に一喜一憂するのは仕方ないにしても、それこそが禅で言う「右往左往している煩悩妄想の世界」だということも忘れたくないことです。
人生は選択の連続。どっちを選んでもつらい、不安。
そんな局面の連続です。それは< DO~する>に正解があると思い込んでいるからです。
正解は< DO~する>になく、<Be~在り方>にあります。
<Be~在り方>とはなにか?分からないなら分かるまで、向かい合ってみることが大事なのです。