「ノルウェイの森」のワタナベ君が持った直子への「絶対に見捨てないからね」という気持ち。それは愛情たっぷりで、尊いものだと思うんですよね。
古くは日本中を感動させた実話「愛と死をみつめて」に代表されるようにです。ミコ(女性)とマコ(男性)と呼び合った二人の物語。この場合はミコに「起こった「軟骨肉腫」という難病との戦いでした。阪大病院で出合ったふたりが、同志社大学、中央大学と離れ離れになりながらも、文通を絶やさず、悪くなる一方のミコを励まし続け、最期を看取るまでの物語でした。
この場合の「絶対に見捨てないからね」と、ワタナベ君の「絶対に見捨てないからね」を同じように考えるわけにはいきません。ミコは不治の病に冒され顔の半分を失いながらも、気丈に生きようとし、愛し愛される日々を精一杯に輝かせようとしました。直子には、それがあるのか、ないのか分らない。映画では性の問題のようにセリフになっていますが、直子がこだわっているのも実はそういう問題ではない。その背景にある問題を観客に考えてほしいのだろうと思います。
女性に限らず男性でも、愛しているほどセックスができないということが起こります。それは普通ではないけど、気持ちがその場から、どこかへ飛んでいってしまうのです。その、どこかで起こっている問題を解決しないと、いくら「絶対に見捨てないからね」と意気込んでも見捨てざるを得ない状況に追い込まれて、見捨てることになる。
見捨てるまで、見捨てさせようとする行為が止まらないのです。なぜなら目的が見捨てさせることにあるからです。
愛している、愛してと言いながら、その一方で見捨てさせる行為をとる。相手には「愛して」と言った事実が残り、見捨てさせる行為の「行為」だけが見えて、「見捨てさせる」気持ちが見えません。この場合の「行為」をミコの病気のようにとるから、「絶対に見捨てないからね」と考えてしまうのですが、そこが間違っているのです。
励ます点ではどちらの心情も同じですが、見捨てないことが見捨てさせようとする気持ちをエスカレートさせてしまうのです。つまり励ましている人が病原菌の役割をしてしまう。ワタナベ君がそれを知っていての慟哭なら、その後の人生で別人になってしまっても不思議ではありません。
しかし、どのような関係であっても、「絶対に見捨てない」あるいは「絶対に別れない」というのは不自然です。別れることがいいとは言わないまでも、どのようなことがあっても別れない関係とはいかなるものでしょうか。
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