幸福になるために、必要なスキルがあります。
特にコミュニケーション、仕事は大事なので必要なスキルがあります。
その分、必要でないスキルは気にしないようにしましょう。
幸せになるために、必要と不必要なスキルの棚卸しをするようしましょう。
できない、できないと思いわずらう人がいます。
人は神様ではないのでできないことがあります。
それも簡単なことができない場合も少なくありません。
むしろ本当に注目すべきことは表面的な事象ではなく、その背景に潜んでいる問題です。
つまり「人生脚本」のことです。
人生脚本とは、自分でも気がつかない間に、自分が自分に用意した自分の生涯の目的です。
わたしたちは、幸福になりたい。健康でいたい。賢くいたい。美しくいたい。と願います。
ところが願望に反して、不幸、不健康、愚か、醜い姿を選んでしまいます。
もっとも本人には選んだ感覚はありません。
潜在意識は実現するといいます。
その言葉通り、実現してしまのは、表面的な意識以上に強い潜在意識が自分の人生脚本を書上げ、その脚本通りに行動してしまうからです。
実に簡単なことができないという人がいます。
確かにそういうことってあります。それは嘘でもなくそうだと思います。
自分は新入社員研修を数多くこなしているので、そういう経験を沢山しています。
習慣がないので、できないのです。
ほとんどの場合、繰り返しトライすれば解決します。
解決できるのは、本人が意識して取組むからです。
その場合、トレーニングする者の視線が背中を押しています。
つまり、できない原因に「甘え」 があることは否定できません。
さて、できないことは誰にでもあります。
だからーできないことがあっても、それで全人格が否定されるものでもありません。
でも、本人ができた方がいいと思うなら、それはそれでいいことです。
実行すればいのです。
したいことは努力してできるようになればいい。
パソコン、英語、習字を学習する要領です。
個人差があるので、すぐにできなくても出来るようになります。
私が新入社員研修で結果を急ぐのは、それができないと仕事にならないからです。
新入社員ができるようになるのも、その目的や意味を理解して努力してくれるからです。
新入社員君にしたら、いままで経験したことのないような厄介もなく会社生活ができるほうがいいでしょう。
しかし「何も問題なく人生を過ごせたら……」という願望を理解することはできても、それは生活全般を無為にしてしまうことにつながっています。
それは恐怖心のために、せっかく”オギャー”と生まれ出てきた子宮の羊水の中に戻る退行です。
生まれたことを後悔しているような行為だからです。
教育する立場で、それを許すことはできない。
人生は個人的なものですが、共同体の一員として放置できない。
それを認めることは「あなたはいなくてもいいよ。」というようなものだからです。
必要なのに、できることを避けて通ろうとする場合、安全を求めて世話をされることを求めて、守ってもらえる、依存できる相手を見つけようとする意識が働いています。
しかし、本当のところ、恐怖心と実際の能力は比例しているわけではありません。
困難な仕事に必要な能力を持っていても、挑戦しようとはせず、自分にはできないと都合のいい合理的と思われる理由を見つけます。
あるいはやってはみるものの、うまくできないと自ら失敗に向かいます。
自分にはできないと都合のいい合理的と思われる理由を見つけます。
あるいはやってはみるものの、うまくできないと自ら失敗に向かいます。
自分には能力がないことを繰り返し証明してみせます。
そして自分を責める・・・私たちが気をつけるべきは、そこにある「人生脚本」です。
人生脚本はここにあり、そこにははっきりとした目的があります
繰り返し証明するには、目的があるからです。
この目的にあわせて自分を作っているのです。
私たちは、「あんなこと、こんなことをしていたから、こうなったんだ。」と考えます。
しかし、それは逆で、「目的 (結果) を達成するために、あんなこと、こんなことをしていた」というのが正しいのです。
ある人は、永年の努力が認められて昇進しました。
スポーツマンで、とてもエネルギッシュな人で、人付き合いもよく家庭人としても問題もありませんでした。
しかし昇進とともに一変しました。
不安と恐怖心で作った「想像」で、時分の内側にヒステリックな混乱が起こって、無気力になったのです。
不安と恐怖の原因、理油はさまざまです。
不安と恐怖は誰にもありますが、好ましくない想像が自立心をくじきます。
自立心が思うように機能しないと、助けを求めて周囲の人に依存してしまうことは身近にあります。
依存心が強すぎて、自分から自立心を放棄するようになると、できることでもしなくなります。
自分にはできないことを証明しょうとするのですから手負えません。
洞察力のある人たちが、一つ一つ噛んで含めるようにサポートしても効果のないことに疲労と挫折感を覚えるようになります。
実はこの挫折感こそが、本人の挫折感そのものなのです。
やがて求めている助けがエンドレスであることに、責任逃れだと思い当たるようになります。
自分にはできないことを証明しょうとするあ者と、それを止めさせようとする者。
主体性は、本人にあるので、止めさせようとする者に勝ち目はありません。
この局面で、するべきことは、主体性を持った本人が自分が何を求めて、何を企て、どのような結果出そうとしているのか。
それにどのような意味があるのか。
それで自分がどうなろうとしているのか。
それを知って進路を変えることです。
サポーターの忍耐のあるサポートを受けることができても、最後に進路を決めて、進路を変える行動をとるのは、主体性を持つ資格にある自分にしかできないのです。
不安があり、乗り越えようとしない場合には、持っている能力も実力以下の能力へと押し下げます。
不安とは、新しいことにチャレンジする際に生まれる、自然な反応です。
決して悪いものではありません。
しかしこの反応に身をまかせるだけなら進化はなく、家庭人としてもいい影響がありません。
完璧主義にように求めるイメージが高すぎるのは問題になります。
自己イメージに「有能な私」の姿が似合わないと感じるのはロクなことになりません。
否定的な自己イメージを持っている人は、自分の能力を高めるチャンスが来ても、問題を解決する場面でも、背を向けてしまうのです。
人は自分の才能を認めることよりも、力がないと思っていたほうがずっと楽なのです。
そうすれば、他人から嫉妬されることもないし、重い責任を負わずにすみます。それをよしとする理由は人それぞれです。
どうしてそうなったのか、過去をほり返すより、どうすれば、問題を乗り越える力を発揮できるかを考えたほうが自分の人生にプラスになります。
間違いなく言えることは、この世界を逃げるようなスタンスで生きることはかえって危険だということです。
働くこと、暮らすこと、人生に最初から意味があるわけではありません。
それぞれ個人が意味を発見します。
暮らしのなかでも、仕事は使い方で生き生きした自分を取り戻す場所になります。
あるいはより自主的になる、つまりなれる最高の自分になる場所にできるのです。
最高の自分は最高の家族に通じています。
「家族」「家庭」は職場と同じような構造をしています。
職場で身に付ける問題を乗り越える力は、そのまま応用できるのです。
「何も問題なく人生を過ごせれ ば……」という態度で家族が機能することはありません。
機能する家族とは、問題がない家族ではなく、問題を乗り越えることができる家族なのです。
問題を乗り越える力を育む場として、仕事の場以上の場所はないでしょう。
家族といる時は甘えが通用するものです。
しかし仕事をするとき、もっとも注意深さが要求されるといって言いすぎではないでしょう。
それをストレス呼び、切り捨てることは簡単ですが、実はこの注意深さを通して、自分自身に気がつき、より良くしていくために、自分がとるべき方向と方法を発見できるようになるのです。
それは自分と家族を守る注意深さに通じています。
仕事は、本来の自分を取り戻す場として、最も有効な場所です。
学校も挑戦することを求められますが、職場では責任がついてきます。
人によって責任は重く感じるものですが、それがあるから逃げずに向かうことができる勇気を育むともいえます。
勇気が乏しいからといって、自分を責めてはいけません。
仕事は毎日それを問いかけています。
だから仕事は人生の中心になるのです。
仕事は教師の役割を果たしてくれるのです。
安全を求めて世話をされることを求めて、守ってもらえる、依存できる相手を見つけようとすることの危険です。
人間は神様ではないので、できないこあと、できることがあります。
それは人によって違う。
したいことなら努力を続けるとできるようになります。
だからできない、できない。できない私はダメ人間だという意味のない考えに囚われずに、もっと行動しましょう。
いまこの瞬間、するべきことに集中するのです。
知っている、知らないが問題ではない。
分かっている、分かっていないが問題ではない。
できること、できないことが問題ではない。
人生で、仕事で、暮らし場面で、大事なのは、
したか、しなかったか。
している、していない。だけなのです。
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